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- 仲筋村(近世)とは
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仲筋村(近世) 王府時代の村名八重山島石垣間切竹富【たけとみ】島のうち方言ではナージィという竹富島のほぼ中央に位置する「両島絵図帳」では中筋村と見え,高18石余竹富島の始まりにかかわるムーヤマ(六山)の1つサージオン(仲筋御嶽)があり,アラシハナカサナリ(新志花重成)の創祀という彼は沖縄本島から来たとも(由来記),日本本土から来たとも伝える(竹富島誌)彼は当初,竹富島南端のブサシに城を築いて居住したが,地形が悪く飲料水にも不自由であったため,島の中央部に移り仲筋村を創始したという(同前)ンブフルの岡の傍らにある仲筋井戸は,彼の飼犬が発見したと伝える崇禎元年(1628)三間切制移行時の村の書上げや(八重山島年来記/県史料前近代1),康煕35年(1696)の噯村役人三年替相賦帳で,竹富島は竹富村1村として扱われているので(参遣状/喜舎場家文書),その頃までに竹富村として統合されたと考えられる乾隆2年(1737)の調査報告でも,竹富村のうちとして,人口は358,村廻りは8町12間とある(同前)「仲筋節」は水甕と苧の苗を得るために仲筋村の役人によって新城【あらぐすく】島へやられた一人娘ヌベマを思い悲しむ内容である(八重山島歌節寄33/歌謡大成Ⅳ) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」